はじめての「ごみ調査」

はじめての「ごみ調査」


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これは、いろんなものを手放し、身も心も身軽になったミニマリストが「やりたいこと」に挑戦していくお話。

ぼくは明日死んでしまうかもしれない。

だから「やりたいことはやった」という手応えをいつも持っていたい。

いざ、心の思うままに。

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ミニマリストになるために、たくさん捨ててきた。

そしていつからか、捨てることがまったく嫌になっている自分を発見した。

 

持つものが減り、買うものが減ると当然ごみは減る。

しかしそれでも、生活していればごみは出る。

 

 

トマトを育てたいと思った動機の多くは、トマトのパックをこれ以上捨てたくないというところから来ていた。卵も毎日食べるが、卵のパックを捨てるのが苦痛で仕方がない。

 

 

持ち物が減り、ごみも減ってようやく、ひとつひとつのものがどこから来て、どこへ行くのか想像が及ぶようになったのかもしれない。

 

 

トマトも卵もそのまま売ってくれないものか。しかし大規模な流通をするためには、仕方ないのだろう。卵をそのままで流通させるなんてムチャだ。大規模な流通から自分も簡便に手に入れているのだから、ごみになるパックも手にしなければいけない。パックはリサイクルされる。しかしパックを作るために資源が消費され、それを再生するためにもエネルギーが必要になってくる。

 

 

いつか環境学の先生に聞いた「ごみを出すのは人間だけ」という言葉が頭から離れない。動物ならすべてを自然から得る。自分から出る排泄物も、死んだ後には自分の亡骸をも自然に還し、それがまた他の養分となる。ムダなものは何もない。すべてが循環の輪にあり美しい。人間だけが出すごみとは何なのか?

 

ごみについてもっと知りたいと思っていたところ、京都大学の浅利美鈴先生からごみ処理場の見学にお誘い頂いた。そしてごみの組成調査にも参加させてもらえることになった。組成調査というのは、捨てられているごみを開封し、どんなものがどんな割合で捨てられているのか、詳しく調べる調査だ。

 

調べるのは京都市のある地域で今朝出された燃えるごみ。伝統ある調査で、40年近く続いている。ごみを出す人にも声をかけているので、こういう調査の対象になるというは了承済みで、地域の方も慣れているそうだ。

 

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京都市のごみは有料で、ごみ袋1リットルあたり1円。京都市のごみはピーク時からほぼ半減しているそうで、そのおもな原因はこの有料化にあるという。

 

 

京都大学の学生さんたちと一緒に作業をする。留学生がすごく多いのが印象的。中国、韓国だけでなく、ミャンマー、ケニアなどさまざま地域から来ている。

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ごみ袋にはひとつひとつにタグがつけられている。重さを測ったら、ひとつずつ開封していく。

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・手つかず(食べられるが捨てられている食品)

・調理ごみ

・包装紙

・DMや新聞紙などの一般用紙

・緩衝材

・ティッシュ(キッチンペーパーやウェットティッシュは別にわける)

・食品包装

・裏がアルミになっている食品包装

・ラップ(個人が使うものと、商品包装はわける)

 

 

大きくわけると大体こんな感じだが、

卵の殻、お茶っ葉やコーヒーかす、髪の毛、掃除機のホコリ、割り箸など木の製品、落ち葉、紙おむつ、ペットの排泄物などもう少し細かくわけていく。

 

実際の作業はかなりエグいので、写真はこれぐらいに留める。

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初心者にとっては、判別が難しく苦戦する。慣れているアルバイトの方に教えてもらいながら少しずつ進めていく。しかし、これはまだ荒分けの作業で、ここから最終的には数百種類の分別がされて調査されるそうだ。

 

おもしろいのは出されているごみから、その人の生活や人となりがわかるということ。

 

 

最初にあけたごみは、とても几帳面な女性のものらしかった。ストッキングや美容液のパッケージが出てくるので女性だとわかる。そして、調理ごみなど乱雑になりがちなものは丁寧に新聞紙などに包まれていたりして小分けにされている。

 

 

ファストフードのごみが大量に出てきた袋もある。食べかけのポテトやナゲットがそのまま捨てられている。中途半端に残ったストロベリーシェイクと、これまた大量に残ったしらすが無残にミックスされたなんとも言えない物体を分別しながら、怒りと同情がないまぜになったような気持ちがわき上がってくる。

 

 

燃えるごみは、こんな風に分別することを想定して捨てるわけではないので、もちろんこの人が悪いわけではないと思う。普通なら誰にも気に留められずそのまま燃やされるだけなのだから。

 

 

男性を判断するのに、店員に横柄な態度を取っていないかどうかというのがあるが、その人がどうやってごみを捨てているのか見てみるのも面白いかもしれない。価値があるものには誰もが丁寧な扱いをする。価値がないと見なしているものをどう扱うかにその人の本質が宿るのではないか?

 

 

最初はギョッとするような作業でも次第に慣れてくる。ティッシュから他人の髪の毛を取ってわけたり、大人のおむつや、ペットの糞を分別するのにも段々慣れてくる。ゴミ山から、使えるものを拾って生活している海外の子どもをみかけることがあるが、なるほどこうやって慣れていくこともあるのかと想像した。それでも心にかかる霧は次第に濃く暗くなっていく。

 

 

お昼ごはんを挟んで、ごみ焼却場の見学。

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このごみピットの収容能力は500トンで、クレーンはひとつかみ3トン。水分量を一定にして、燃焼を安定的にするためにこのクレーンでかきまぜられ、焼却炉へと運ばれている。

 

ごみを燃やして生まれる排ガスや、ダイオキシンの削減対策ももちろん取られている。燃やしてうまれた熱で蒸気タービンが回され、電力も生み出されている。工夫と叡智に敬意を抱く。

 

しかしごみの圧倒的な物量的を前に、自分から出てきた最初の感想は「人間って滅んだほうがいいんじゃないのかな?」というものだった。どうやら霧は濃霧となり、幽遊白書の仙水忍的な状況に陥っていたらしい。

 

しかし明るいきざしも見えた。一緒に行動していた留学生たちは、ごみ処理場で熱心に細かい質問を繰り返していた。ぼくとパートナーになっていた、ケニアからの留学生にも話を聞いた。ケニアにも環境問題は山積みのようだ。経済は発展していくが、有効な対策はとられていない。かつての50年代~70年代に日本が辿ってきたような道を、遠いかの国も辿っているようだ。

 

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ゴミ処理場を見学する留学生たち。この熱心さは、自国の環境問題をなんとかしなければという決意に支えられているのだろうか?

 

 

見学を終えて、またゴミの分別に戻る。

最後には手つかずの食品を集めて撮影。いわゆるフードロスというもの。

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75世帯が出したごみ袋から出てきた食品たち。賞味期限切れのものもあるが、まだまだ食べられる状態のものも多かった。

 

冷蔵庫を持っていない稲垣えみ子さん。稲垣さんによれば、冷蔵庫は「いつか食べよう」いう夢がつまった箱だという。予定はないが、いつか食べるかもしれない。冷蔵庫なら保存が効くからとりあえず入れておこう。そんな食品たちは、いつかの花舞台が迎えることもなく、廃棄される。

 

 

ぼくは今、毎日同じようなメニューを食べている。スーパーで買うものも毎回ほとんど同じなる。食べるものが決まっているということは、買ったものは必ず食卓に登板するということ。干し野菜をはじめると、野菜を無駄にすることがなくなった。今の自分からはほとんど食べ物のムダは出ていない。

 

 

では、自分は悪くないのか? こうしている今もエネルギーを消費し、自分の排泄物を知らない遠くへ垂れ流している。

 

たくさんのものを捨ててきた。過去には分別せずに捨ててしまったものもあった。食べ物だって、いままでたくさん無駄にしてきた。俺が開封したごみ袋は、かつて俺が捨てたごみ袋ではなかったか?

 

アーティストの村上慧さんの言葉でも忘れられないものがある。

「あいつが悪い! と指差した人差し指は、そのまま向きを変え自分に返ってくる」。どこにも巨悪などは存在していない。RPGのようなボスキャラは現代にはいない。無力な誰もが少しずつ責任があり、誰の命も同時に輝いている。

 

 

家庭から出るごみが1年でびん一つだったというベア・ジョンソンは「ゼロ・ウェイスト・ホーム」を書くにあたって葛藤があったという。自分は紙一枚でも減らそうとしているのに、紙の本を出版するということは矛盾ではないのか? いつか本が捨てられてしまうこともあるだろう。しかし、自分が本を出すことによって影響が広がりごみが減れば、全体的から見れば益になる。こんな風に、相対的に意味のあるものとしてしか自分の行動を意味づけることしかできない。ごみの調査をしていても、それに必要なゴム手袋や、マスクはごみになっていく。

 

 

虫が滅べば、分解も受粉もできなくなり数年で地球全体が滅ぶという説がある。

一方人間が滅べば、あらゆる生命が一斉に繁茂するのだそうだ。

「人間って滅んだほうがいいんじゃないのかな?」という思いは、逆説的なポジティブさへ変換されていく。

 

 

人間は滅んではいけない、だからなんとかしなくちゃいけない。

そんなことを思うこちらには善があり、どこかに悪が存在していると考えると、あまりに無力で徒労とも言える戦いにいつか疲れてしまう。

 

 

最終的には人間なぞ滅んだっていい。だが一応できることをやろう。

俺は悪の片棒を担ぎながら、同時に一矢報いてやるのだ。

 

 

こう思うほうがなぜか力が湧いてくる。

勇気づけられるのはいつだって、やぶれかぶれの捨て身の反撃なのだ。

Written by sasaki fumio
sasaki fumio

ライター/ミニマリスト 1979年生まれ。香川県出身。出版社2社を経てワニブックス勤務後フリーに。2014年クリエイティブディレクターの沼畑直樹とともに、『Minimal&Ism』を開設。初の著書『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(小社刊)は、国内16万部突破、21ヶ国語に翻訳される。

»http://minimalism.jp/

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