「はじめての解体」 後編

「はじめての解体」 後編


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これは、いろんなものを手放し、
身も心も身軽になったミニマリストが
「やりたいこと」に挑戦していくお話。

ぼくは明日死んでしまうかもしれない。

だから「やりたいことはやった」
という手応えをいつも持っていたい。

いざ、心の思うままに。

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※動物の解体中の写真が含まれますので、苦手な方、気分の悪くなる可能性のある方は、閲覧をご遠慮くださいませ。

 

 

鹿の解体と聞いていたのだけど、猪もいた。内臓はすでに抜かれていて、水で冷やされている。

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最初は、動物の死体があることがおどろおどろしく、なかなか直視できなかったが次第に慣れてくる。他の参加者も「だんだん慣れてきたのがいやだ」といっていた。本当にその通り。

体にさわってみる。ひづめの中の柔らかい肉球も、ざらざらした毛も命があったときと変わらない。

 

黙祷をして解体開始。年に100体は解体するという方に教えてもらいながら作業を進める。

前脚と後脚を切り取り、切り口にナイフを入れて皮を剥ぐ。率先してやる。まずは鹿。ナイフを入れていくと、すぐに皮はむけて、拍子抜けするほど。「鹿の皮は、服を脱がすようにむける」という意味が体感としてわかった。参加者で次々に交代しながら、作業を進めていく。

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皮を首までむいたら、頭を落とす。猪なら顎の骨の下の部分とか、ナイフがはいっていくポイントがあるらしい。

頭を落として、肉だけになると身体にはかなり「お肉感」が出てくる。しかし切り落とされた鹿のかわいい頭が切ない。

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命を失った翡翠のような碧い目はこの世ではない場所を見ている。目を閉じさせようと試みるも、固く閉じない。イノシシは長いまつ毛があって、ぴったり閉じているのに。

 

気持ち悪さは感じなかった。気分も悪くならなかった。いきなり見たらキツイだかもしれないが、いままで散々、本や動画で解体を見てきていたからだ。今回は自分で命を奪っていないし、危惧していた内臓の処理すら先に行われていたというのもあると思う。

 

想像していたほどは現実は激しくなく、先に体験した人の感想を読みすぎたかもと思った。セックス前の頭でっかちの童貞みたいだと思った。本で読んだ以上のことを現実に感じ取れていないかも、と不安にもなった。

 

驚くほど冷静に皮をはぎ、猪の前足を切り取り、モモから骨を取る。プロの解体をみていると、筋肉の部位ごとに綺麗に別れていて、美しさすらある。

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丸呑みするのはでなく、解体して料理して食べる、というのは人間ならではの行為だという。その間に、食べる相手のことに思いやるのだ。

そうなると、自分に置き換えることは止まらない。まだ小さいうちに、罠にかけられとどめを刺される。解体され、料理されて、隣で酒をあおられながら盛り上がられる。野蛮そのものという気もする。

だがこうやって人間は生きてきたのだ、という感覚もある。解体は気持ち悪さもあるが、喜びもあり楽しみもあった。そのせいか、一通り作業が終わったのだが、頼まれてもいないのに解体を続けた。気持ちの悪さは、自分と置き換えてしまうから。自分に置き換えやすい、四肢のある哺乳類だから。虫と自分は置き換えようとしない。だから蚊は殺す。自分は次に蚊に生まれ変わるかも、と小さい頃から思っていた。漫画「ブッダ」の影響かもしれない。だから蚊も殺さないようにしていた。その実、散々殺しは買ってきていたのだ。

20kgの獲物だと、小一時間ほどで終わった。それでも解体は手間がかかる作業だ。100kg級の獲物になると1日仕事になるらしい。身に沁みてとまでは言えないけれど、獲物を採ってから、さらに肉にするまでの大変さが少しわかった。

作ったソーセージに、うりぼうの煮込みに、スペアリブ。

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野生動物の肉は味が濃くて、複雑な味がする。豊富な運動量があり、食べているものも複雑だからかもしれない。野草を食べたときも思ったが、生命力に満ちあふれている。どれも大変に美味しかったのだが、ぜんぜん量を食べられなかった。一切れの肉にすごいエネルギーが詰まっている。その一切れを得るのにも、とんでもないエネルギーがかかる。

それしか食べ物がなかったような時代に、チームワークで賢明に狩り、その疲れを癒やし、活力を得るために肉はあったという感じがある。他にたくさん食べ物があり、大した運動もしない現代人にとっては、肉は贅沢品なのかもしれない。

帰り道に、道の駅で売られていたベーコンの山を見て違和感を感じる。獲物を採り、肉を作るのはあんなに大変なのに、これを作るのにどんな作業が行われているのだろうかと。

素人DIYをした後に、巨大な建築物を見たときもこんな気持になる。こんなものすごいものを作るには、人間の叡智の蓄積があり、分業化が欠かせない。だがその結果ばかり享受していると、段々その過程に疎くなってしまう。

考えはまとまりようもないが、今も肉を食べることはやめてはいない。しかしその頻度はごく自然に落ち、家で食べることは少なくなり、魚が多い。自分で殺せるものだけ食べたいという気持ちに移ってきている。肉を食べるときも、自分が殺し、部位に切り分けたものと想像したりする。

文章や映像で見てきた以上の感想を超えられていない、と思ったが確かに変化はあった。あの小さな鹿と猪の姿を、俺は見えない入れ墨で背中に彫った。命を失った子鹿の碧い瞳は、俺の視神経にプラグインされた。俺を通して君は続きを見る。俺が1cmでも遠く跳躍したのなら、それは君たちの四肢を食べたおかげだ。

Written by sasaki fumio
sasaki fumio

ライター/ミニマリスト 1979年生まれ。香川県出身。出版社2社を経てワニブックス勤務後フリーに。2014年クリエイティブディレクターの沼畑直樹とともに、『Minimal&Ism』を開設。初の著書『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(小社刊)は、国内16万部突破、世界18言語に翻訳される。

»http://minimalism.jp/

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