引越し前夜の晩餐は、冷蔵庫にあるもの全炒め
おいしいごはんを「おいしい」と思いながら、食べられること。
仕事終わりにくたくたで立ち尽くす夜も、今日という一日に何か意味を持たせたい時も、自分にご褒美をプレゼントしたい日も。当たり前の幸せをかみしめながら、明日をがんばるための「おいしいひとくち」を運びます。
食べることが大好きなほうじ茶さんによる、おいしくて元気が湧いてくる食のエッセイ。
突然だけど、引越しをすることになった。
就職を機に上京し、清澄白河に七年ほど住んだ。
上京する際、母親が言った「清澄白河って名前が良いよね」という一言でこの場所に住むことになったけれど、名前に負けないとても良い街だった。
夜、どうしようもなくなった時には川を見に行った。大きな青い橋からキラキラした川の水面をボーッと眺めて過ごすのが好きだった。
日曜日のお昼、大きな公園に行きお惣菜屋さんで買った焼き鳥を食べながら、シャボン玉を作る子どもや仲良さそうな鳥たちを見るのが好きだった。
暇な時、よく図書館に行った。螺旋階段と色とりどりなステンドグラスが綺麗で好きだった。自分の書いた本が置いてもらえているかわざわざ確認しに行ったこともある。本棚には見つからなかったが、予約をしてもらえていたことを知った時は、泣きそうになった。
お給料が入った時に行ってもいい(自分のルール)居酒屋があった。少しお高めだけれど、どの料理も本当においしくてあったかくてお腹も心も満たされた。顔を覚えてくれて、毎回声をかけてもらえるのも嬉しかった。メヒカリの唐揚げ、分厚いふわふわの卵焼き、にんじんのカラムーチョが特に好きだった。
異様に安いのに丁寧で優しい歯医者さんや、サンタさんみたいな髭の店員さんがたまにいるコンビニ(会えると嬉しい)、人生相談を聞いてもらえるネイルサロン、狭すぎるマック、『MEN’S NON-NO』に登場してきそうな人が沢山いるBAR(ビビってあまり行けていない)、変な位置に蛍光灯がついた駅の通路、どれもこれも私が七年間住む中で見つけた場所や人だ。
割引シールが貼られた食材ばかりが置かれたスーパーで店員のおばさんたちが愚痴ばかり言っていたのも、深夜に近所の居酒屋から聞こえてくる「おつかれっしたー」「また飲みましょー」の声も、聞けなくなると思うとなんかちょっと寂しい。
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そんな〈好き〉が沢山詰まった清澄白河から離れる理由はいくつかある。
外的要因では、隣の人の騒音の回数や音の大きさがひどくなったこと、前の人の部屋からする匂い(強い香辛料のようなお香を焚いている)が強くなったことだ。
そして、私も部屋の狭さが気になるようになった。
音も匂いも今に始まったことではなかった。もう何年も前からで、会社の人や友達に話すと毎回「やばいよ! そのマンション!」「早く引っ越しな!」と促されていた。
それでも引っ越さなかったのは、音や匂いで私ではない誰かの生活を感じられることが、そこまで嫌ではなかったからだ。
嫌だと感じるようになった時、そろそろここにいない方がいいと思った。
重い腰を上げて不動産に行き、最初は清澄白河のあたりで家を探してみたが、家賃が高すぎて到底無理だった。安い物件もあるにはあったが、どこも安いなりの理由があった。
そんなこんなで清澄白河を出ることになった。
色々なことを後回しにしがちな私が引越しなんてできるのかと思ったけれど、できる、できないではなくて、やるしかなかった。
電気水道ガスは電話でものの2、3分で終わったし、区役所も思いの外混んでなくすぐに転出届の手続きが終わった。〈なんだ! やればできるじゃん!〉と自分が誇らしく思えた。コンビニでちょっと高めのアイスを買った。
ゴムが伸び切ったパンツや、ヨレヨレのタオルなどを断捨離しながら、本当に必要なものだけを段ボールに詰めていく。これも人生に必要な工程なのだと強く思った。
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引越しの前日、段ボールだらけの部屋で最後の料理をした。まな板を置くスペースすらない狭いキッチンも、水の勢いが弱い蛇口も、焦げやすくなったフライパンも、切れ味の悪い包丁とも今日でバイバイだと思うと、なんだかセンチメンタルな気持ちになった。
冷蔵庫の中のものを明日までになくさなきゃいけなかったので、最後の晩餐と称した冷蔵庫掃除をした。いつ買ったか分からない冷凍の鮭、おじいちゃんの畑で採れた玉ねぎ、賞味期限が一日過ぎていた卵を五個使って、全部一つのフライパンで炒めて醤油と塩胡椒で味付けした。何か一つでも野菜とかで彩りがあったら良かったが、残念ながらなかったので色褪せたパセリを気持ちばかり振りかけた。
お行儀良くないかもしれないけれど、テーブルは処分していたので、段ボールにタオルを敷いて机にした。さらにお行儀良くないかもしれないけれど、お皿はプチプチに包んでしまっていたので、フライパンのまま食べた。
そんな即席の全炒めはちょっとしょっぱかったけれど、ボリューム感があってふわふわでおいしかった。
ああ、良かった。
私の清澄白河での生活も、しょっぱかった日もあったけれど楽しかったし、寂しかったけれどおもしろかった。何度泣いたか分からないし、何度消えようと思ったかも分からない。
この部屋だけが、知っていて、ずっと見守っていてくれた。
なんとか日々を乗り越えて、こうして引越しという大きな一歩を踏み出し、見た目は茶色いけれどおいしいごはんをおいしいと思いながら食べられている。〈すごいよ、本当に〉と猛烈に自分を褒めてあげたくなった。
何にもなくなった部屋はとても広く感じた。伝わるか分からないけれど、精一杯の〈ありがとう〉を心の中で言いながら最後の掃除をした。
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新しい家は前よりちょっと広い。キッチンも広くなった。コンロは二口になったし、魚焼きグリルもついている。ガスコンロにはまだ慣れなくて、今日もハンバーグを焦がしてしまった。
前の家に戻りたいと思う瞬間もあるけれど、次はここに私の好きを集め、好きが溢れる場所にできたらなと思う。
マンションの掲示板に一枚の紙が貼られていた。花火大会に伴って屋上を開放してくれるらしい……。
きっと大丈夫だ、好きになれる気がする。

*次回の更新は10月16日(金)を予定しています。
ほうじ茶
社会人X年目のOL。広告代理店に勤務する傍ら、XやInstagramで日々の思いを綴り、静かに隣にいてくれるような文章が幅広い層の支持を得る。ただ生きているだけで〈そんなことある?〉〈噓でしょ⁈〉みたいな出来事に遭遇することが多い。繊細だが大ざっぱなところもあり、部屋の片づけは大半の人が苦手なものだと思っている。狭くて汚い自分の家が一番安全で落ち着く。最近引っ越してキッチンのコンロが二口になった。生活を愛せるようになりたい。著書に『どこかでちょっとずつ傷ついてる やさしいみんなへ』(KADOKAWA)、『きっと今はハッピーエンドへの途中、』(すばる舎)、『月曜日が嫌いな私の好きなこと』(世界文化社)がある。
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