はじめての「解体」前編
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これは、いろんなものを手放し、身も心も身軽になったミニマリストが「やりたいこと」に挑戦していくお話。
ぼくは明日死んでしまうかもしれない。
だから「やりたいことはやった」という手応えをいつも持っていたい。
いざ、心の思うままに。
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社会が発展するにつれて分業が進み、効率化がなされた。
たくさんの仕事をあれこれやるほうが飽きずにおもしろいのだが、分業し専門的にやってもらったほうが効率があがるからだ。そうしていつしか専門で稼いだお金で、他の専門家の仕事の成果を買うことが当たり前になった。
自分は専門の仕事で忙しいから、ほかのことは別の専門家に任せる。そうして動物にとって基本的な行為のはずの食べ物を作ること、採ることも今は専門家に任せるようになった。肉を美味しい美味しいと食べていてもそれを育てることや、殺すことは他の人に任せる。つまりお金を払って「殺しを買っている」。
散々自分も殺しを買い大いに楽しんできたはずだが、いつしかわだかまりがぬぐえなくなってしまった。
「子どもが好き」ということは、甥っ子や姪っ子をたまに抱っこして、いいところだけを見て言っていい台詞ではないと思っている。夜泣きや、イヤイヤ期の地獄を経てそれでも愛情をかけられるかどうか。それと同じで「動物が好き」ということもまた、かわいい犬猫の動画に癒やされることだけではないと思っている。
千松信也さん、畠山千春さん、服部文祥さんなど、猟師として命と向き合っている方たちの本を何冊も読んだ。命を自らの手で奪い、生活の糧としている方の命への考察は恐ろしく深く、動物たちへの愛情も人並み外れている。
命を奪い、肉を作ること。それがどんなものか少しでも体験してみたい。
そう思って猟師さんの手ほどきのもと、鹿の解体をさせてもらえるワークショップに申し込んだ。
当日は気が重かった。「……行きたくねぇ」と思いながら行った。奈良の近くに住んでいるので、春日山までドライブしてそこにいる鹿と戯れるのが好きだ。
春日山の鹿。
戯れながら、自分が狩ることもいつも想像するのだが、ぜんぜんできる気がしない。不安だった。
行ったのは岐阜で行われた「猪鹿庁」さんによるワークショップ。里山の状況や、猟師さんの現況を聞く。
里山に人が入らなくなり、捕食者もいなくなり、猪や鹿が増えている。若い木や芽は好んで食べられてしまうので生態系が変わっていく。畑の獣害もあるというのはよく聞く話だ。食べるためよりも、今は駆除するために狩る必要があるのだ。
猟師はマンガの「山賊ダイアリー」などの影響や、上記の本の影響もありブームのようにもなっているが、実際はほとんどが60代、70代の方でこのままいけば10年もすれば激減してしまうとのこと。
ソーセージを腸につめる体験をした後、実際に獣が住んでいる山でその痕跡を探す。
獣道を見つけたり、糞を探したり。
ヒルに食われながら。注意していても、潜り込んでいてすごい。
足跡も見つかる。探偵のようで楽しさもある。
くくり罠をしかける体験もさせてもらう。
木に結び、輪っかを金具にかけて、引っ張ってバネを締めていく。
そしてこれを金具で固定する。
この黒い金具が踏まれてU字型に曲がると、バネが解放されて締め上がる仕組み。
自分の足で体験させてもらった。踏み入れると一瞬で締まる。
人間なら手を使って輪を広げて逃げられる。が、動物はそれができず、逃げれば逃げるほど締まっていく。思わず自分がそうなった状況に置き換えてしまう。
動物の痕跡を見つけて、通りそうな場所に罠をしかける。仕掛けた罠は毎日見回る。
ほんの数十センチの罠に通るかどうか。
自然界から肉を得るということは、なんと手間がかかることなのだろう。
狩るよりも、飼うほうが効率がよいと誰かが気づいた。そうして安定して肉が食べられるようになった。しかし飼育された肉を、消費だけしているとあまりに見えないものが多くなってしまうのではないだろうか?
次回は、解体の体験を報告します。