【生きづらさを活かすヒント】「心が空っぽ」になったときの処方箋

【生きづらさを活かすヒント】「心が空っぽ」になったときの処方箋



HSPや発達障害、精神的ストレスなど――
ごく身近な“生きづらさ”を活かすためのヒント。
そして、繊細だからこそ見える、世界の美しさについて。
書籍や映画など、さまざまな知恵や芸術に学び、ご紹介しながら、
自閉スペクトラム症(ASD)当事者である編集/文筆家・国実マヤコが、つらつらと、つづります。


 

今は亡き“あの人”を呼ぶ「魂呼び」とは?

ある日、出張中の夫から「今夜の『ブラタモリ』は恐山だよ。キミ、見逃せないんじゃない?」とLINEが届いた。ふだんテレビはほとんど見ないが、夫からの厚意を無下にはできないと、久しぶりに地上波にスイッチを合わせる。

なぜ、夫が「恐山」というキーワードでわたしにLINEをよこしたかと言えば、もともと民俗学が好きで史学科(日本中世史専攻)を卒業していることや、オカルトが趣味で、常にこの世とあの世について思いを馳せていることなどが理由かと思われる。もちろん、日本三大霊場のひとつである恐山も、いつか訪れてみたい場所のひとつだ。

番組がはじまり、霊場恐山菩提寺の院代・南直哉師の解説のもと、どこか水戸黄門を彷彿とさせるタモリを中心とした一行は、恐山が恐山たる所以について、地質学などをもとにあぶり出していくのだが、これが、じつに興味深い。大きな軽石のようにゴツゴツとした岩場、いまなおプスプスと噴き出る有毒の火山性ガス、死者のために積まれた石、カラカラと廻る風車は、すべてを引っ括めて、恐山が、まるで「あの世/地獄」を疑似体験するための“テーマパーク”のような仕組みとなっていることを知ったからだ。

なかでも、わたしの興味をひいたのは、一行(参拝者)が最後に到達する、宇曽利湖の極楽浜である。まるでエーゲ海、というのはいささか言い過ぎかもしれないが、強い酸性のため生物が存在できないというカルデラ湖は、白と緑のコントラスト際立つ、じつに美しい場所で、地獄を通り抜けたそこは、まぎれもない極楽なのだった。

△ 恐山 宇曽利湖の極楽浜/写真AC

南直哉師も、著書『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)のなかで、「恐山にある岩場のことを、昔から地獄谷とか賽の河原などと呼び、そこを抜けて湖の方に出ると白浜の浜があり、極楽浜と呼びます。地獄から極楽へ、なんて出来すぎですが、湖を見渡せるとても美しい場所です」と書いている。

そんな美しき“恐山のハイライト”となる極楽浜で、参拝者たちは風車や花束を供えたあと、決まってあることをするそうで……。以下、上記書籍からの引用である。

「お供え物をした後はみんなで拝みます。それからどうするかというと、湖に向かって、懐かしい人の名前を呼ぶのです。『お母さーん!』『お父さーん!』『タカヒロー!』。湖は恐山の南西側にあり、日はそちらに向かって落ちる。(中略)つまり、湖そしてその先の大尽山の方向に、西方極楽浄土がある、というわけです。そちらの方向に向かって叫ぶ。一心不乱に『お母ーさん、お参りに来たよー!』と呼びかける。」

これを、「魂呼び(たまよび)」と呼ぶのだとか。このとき、わたしは胸がざわつくのを感じた。あれ? これって、わたしがときどきやっている……あれのこと?

 

「わたし、なんで生きているんだろう……?」

わたしは、亡くなって20年以上が経つ母方の祖母に、今でも手を合わせ、小さく呼びかけることがある。「おばあちゃん」「おばあちゃ…ん」「おばあちゃ〜ん!」気づくと、嗚咽を漏らしていることも、しばしばだ。母親になろうが、アラフィフだろうが、祖母の前で、わたしは永遠に、ただの孫である。

夫を亡くしてから数十年を、国分寺にある小さな家でひとり過ごした祖母は、武蔵野の奥深くにあるホスピスで、天寿を全うした。庭の花に水をやり、梅の木から実をとって梅干しをつくり、ザラザラとした舌触りの寒天ゼリーを冷蔵庫に冷やしていた祖母は、孫のわたしにとって、ただ、ひたすらに優しく、大きな存在だった。

つらく悲しいとき、わたしはかならず、この祖母の笑顔を思い出す。そんなとき、祖母はあたたかい笑みをたたえ、生前よく言っていたように、こう語りかけてくれるのだ。

「マヤちゃんは、いい子だね」

わたしのような特性(発達障害)を持つ人間は、とかく自尊感情に乏しい傾向がある。ただでさえ、できないこと、苦手なことが多いうえに、それが特性ゆえだと理解されず、「なぜ、できないの?」と問われる――あるいは、問われているように感じる――場面が多いからだ。たとえば学習障害(LD)のある人に「どうしてうまく本が読めないの?」、注意欠陥・多動性障害(ADHD)のある人に「どうして段取りよくできないの?」と言ったところで、「どうしてと、言われても……」と口ごもるしかない。口ごもり、そして、少しずつ、身体の中が空っぽになっていく。
「わたし、なんで生きているんだろう?」。そこまで空っぽになったら、優しかった祖母の笑顔と、最期まで懸命に生きようとした、小さくて大きな亡骸を思い出す。そして、「おばあちゃん!」と、小さく「魂呼び」をしてみる。すると、空洞のようだった身体が、少しずつ、美しい色で満たされていくのを感じるのだ。

「マヤちゃんは、いい子だね」

祖母はわたしを、無償の愛で満たした。小さいころから色々なことが不器用だったわたしを、死してなお、こうして肯定し続けている。そんな存在がひとりでもあったなら、人は生きていけるかもしれない。

みなさんも、すでにあの世へと旅立った人のなかに、そんな風に思える存在はいないだろうか? 空っぽになった自分を、無償の愛で満たしてくれる人。そう、そんな存在がひとりでもあったなら、きっと、わたしたちは生きていけるのだ。

そして、石を積もう。恐山では、幼い子を弔うために石を積むというが、わたしたちは、わたしたちの愛すべき亡き存在が、自分を無償の愛で満たしてくれたことを思い出し、小さな“自己肯定感”という石を、もう一度、積み直していくのだ。鬼に崩されることもあるだろう。でも、ふたたび、積めばいい。石をひとつ、ふたつ、そして、みっつと――。

最後に、『恐山 死者のいる場所』から一節を紹介し、本稿を終えたいと思う。

「人間は、『あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい』と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。それは自分ひとりの力では見つけることができないものなのです。」


恐山 死者のいる場所』(新潮新書/新潮社)
著:南直哉


Written by 国実マヤコ
国実マヤコ

東京生まれ。青山学院大学文学部史学科を卒業後、出版社勤務を経て、フリーランスに。
書籍の編集、および執筆を手がける。著書に、『明日も、アスペルガーで生きていく。』(小社刊)がある。
NHK「あさイチ」女性の発達障害特集出演。公開講座「大人の生きづらさを知るセミナー」京都市男女共同参画センター主催@ウイングス京都にて講演会実施。ハフポストブログ寄稿。
Twitter:@kunizane

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