至らない尽くさない宿

至らない尽くさない宿


このところ、本業の繁忙期に加えて年末と年明けに続けて出す新刊本の作業で忙しく、週末も休みなしで働いていた。いくら仕事好きな私といえども、さすがにクタクタ、どこか静かなところでのんびりしたい欲で頭のなかはいっぱいになってしまった。
そんな時に行きつけのレストランのシェフから教えてもらったのがシェフご夫妻で遅い夏休みを過ごすという奥能登、珠洲にある「湯宿さか本」という旅館だ。

能登には行ったことがなかったが、ホームページの写真を見たとたん、すぐにその佇まいの美しさに魅了されてしまった。しかもこの時期には季節限定の松茸料理が供されるとのこと。仕事がひと段落した11月の初め、ちょうどコースが終了する前日の予約なら取れるという。これはもう神様の思し召し、ご縁を感じて思い切って行くことにした。
というわけで、久しぶりに旅の記録、お付き合いください。

朝、羽田から飛行機に乗ると1時間で能登空港に着く。レンタカーを借りて、せっかくなので能登でランチを取り、海岸線をドライブして木ノ浦湾にぽつんと建つ一軒屋、「カフェ コーブ」に寄ってみた。冬季休業の前だからか、人影もまばらなのがうれしい。波の音を聞きながら、ひたすらぼんやりした時間を過ごすことができた。

すでにライフ値はかなり回復したところで、いよいよ今回の旅の目的地、であるさか本に向かった。こんなところにあるのかと不安に思いながらくねくねと細い道を通ってたどり着いた先にそこはあった。

ちょうど宿をとり囲むように茂った木々が色づき始め、その先に佇む玄関とのコントラストが息を飲むほど美しい。

玄関を入って「こんにちは」と声をかけるものの、しんと静まり返って誰もいない。そうだ、ここは至らない、尽くせない宿とご主人がいう場所なのだった。広いこの建物のなかにわずか3部屋だけ、スリッパもテレビもなく、もちろんWi-Fiも入らない、洗面所もトイレも共同の小さな宿。

勝手に上がって、黒漆の廊下を恐る恐る進んでいき、帳場をのぞいて、今夜の部屋の場所を教えてもらった。薪ストーブが赤々と燃え、囲炉裏が切ってある居間の階段のすぐ上に部屋があった。

部屋に入ると6畳間にすでに布団が延べてあり、そして窓の向こうにはまた見事な紅葉の木々たち。部屋がほの暗いので窓の向こうの景色がまるで絵画のようだ。能登は寒いのではないかと厚手のはおりものを持ってきたが、囲炉裏と薪ストーブの熱気が自然に上がり、暖房がなくてもぽかぽかと温かい。お風呂の時間までまだある。お行儀悪く、ごろんと布団に横になって、読みたかった本を読む幸せ。気が付くと寝落ちしてしまっていた。

湯宿さか本のお湯は17℃の冷泉なのだそう。それを薪で沸かし、燈油で保温しているとのこと。浴場の湯船は木の蓋が閉まっている。それを自分で開けて入り、上がる時にはまた自分で閉める。ほったらかしにもほどがあるが、それに慣れてくるとあれこれ世話を焼かれるより、かえってそれが心地よい。

もちろん、ほったらかしといえどもどこもかしこもきれいに掃除が行き届き、はだしで廊下を歩いてもすっきりと気持ちがよい。この宿の象徴でもある窓ガラスがなく、外気直接の洗面所も湧き出る水の冷たさと相まって、しゃきっと身が引き締まる。

なんだろう、この心地よさは。至れり尽くせりのサービスに慣れてしまっているともしかしたら、好き嫌いが分かれるかもしれない。けれど、私は我が家にいるようなこの自由さがとてもしっくりきた。

お湯に浸かっていい感じにふやけた後は、いよいよ夕餉の時間。食事は囲炉裏の部屋に宿泊者全員がひとつの大テーブルに集って一緒に取る。

ほどよい距離間、コミュニケーションを取ることができなければ食事の時間を楽しめないかもしれない。大声でしゃべる、酔っぱらう、自慢話をする…そんな人と居合わせてしまったら大変だ。幸いなことに今回はお隣に座ったカップルがとても素敵な方たちだった。穏やかでさりげなく心遣いしてくださる。この会話のおかげで食事の時間を楽しく過ごせることができた。

この時期限定の松茸コースはまず焼き松茸から始まる。

さっと焼いて裂いた香りのいい一品。続いてくみ上げ湯葉、シンプルにわさびと醤油で。その醤油のコクのある美味しさにどこのものが思わず聞いてしまったほどだ。

煮含めた里芋、しめじ、酢漬けのかぶと金目鯛のぬた、蓮根蒸しには針のように細く裂いた松茸、地魚の刺身と続いて、能登牛と松茸のすき焼きにぎんなんのごはん。

どれもシンプルで余分な飾りけが一切ないが素材の味、使っている調味料が吟味されていることがよくわかる。特にじっくり煮含められた煮物の美味しさといったら。簡単に素材の味わいを生かしたなどと語るのはおこがましい。本当に目を見開いてしまうほどの鮮烈さがどの料理にもあった。料理するのが好きだけれど、こんなに真剣に素材に向き合うことが私にはできるのだろうかとふと考えてしまった。
気持ちよくお腹がいっぱいになり、温かな布団で朝まで熟睡、日ごろの寝不足が一気に解消した。

翌朝、にわとりたちの鳴き声で目を覚ます。外気が流れ込む洗面所で冷たい水で顔を洗う。


朝食もまた昨日と同じ囲炉裏の間で。
松茸の献立は朝にも続く、というより、むしろ朝食は真骨頂かもしれない。まず熱々の土瓶蒸しが登場。朝に土瓶蒸し?と思っていると続いて片手にずしんと思い漆のおおぶりのお椀に盛られたひとり一合はあるかと思われる松茸ごはん。鰈の煮付け、お揚げと大根の炊いたもの、香のものには松茸の味噌漬け。

生まれてそこそこ長く生きてきたが、どんぶりめしの松茸ごはんをいただくのは初めてだ。この迫力、インパクトにさか本ならではのもてなし心を見せて頂いたような気がする。食べきれなかった分は無事、折り箱をいただいて持ち帰ったが。

チェックアウト後はまた誰もいない木々に囲まれたゲストハウスで静かにコーヒーをいただく。色づいた木々を眺めながら立ち去りがたい時間を過ごした。

寒さが厳しくなる1月と2月は休業するというこのさか本。次に訪れるのは新緑の時期だろうか。その頃は敷地内に自生するというたけのこを楽しみに訪れたいと思う。

 

*次回は12月14日(月)更新予定です。

 

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arikoの食卓 ~小腹がすいたら~

Written by ariko

CLASSY.、VERY、HERSなどの表紙やファッションページを担当する編集ライター。日々の食卓をポストしているInstagramが、センスあふれる美味しそうな写真と食いしん坊の心を掴む料理で話題に。現在、フォロワー数は131,000人を突破。Instagram@ariko418

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