曖昧で優しい森にいた #それでも女をやっていく

曖昧で優しい森にいた #それでも女をやっていく



会社員、フリーライターであり、同人ユニット「劇団雌猫」として活動するひらりささんが、「女」について考えるこの連載。
今回は、「百合」をテーマに綴っていただきました。


百合が好きで嫌いだ。わたしはあなたのお姉様になれなかったし、あなたもわたしの恋人にはならなかった。わたしたちは今Twitterをブロックしあっている。

どれだけBLを貪り読もうと、BLには憎しみはわかない。だって、“なれない”ことが念入りに保証されていたから。BLに出てくるのは、男でも女でもなくて“攻め”や“受け”だった。何重もの意味でフィクショナルで歪つな正しくなさによって、自分の身体や人生につきまとう物事への肉薄が可能になる実験場。女たちの傷つきと欲望によって編み上げられたグロテスクな繭のような、そういう世界だった。

 

百合の「少女」に憧れ嫉妬した

対して、百合との関係は、最初から危うかった。それは、ファンタジーなのにファンタジーではなかった。BLは女にとってそれ自体がSFとなりうるが、百合はそうではない。百合と出会ったとき——そう自覚して読んだのは、『マリア様がみてる』が初めてだった——わたしは少女だった。女子校に通っていた。気になる先輩や気になる子がいた。でも、百合ではなかった。姉妹制度がなかったからとか生徒会に入らなかったからとか以前に、わたしはニキビだらけで眉毛も髪もぼさぼさの小猿のたぐいであって、リリアン女学園に存在できる生き物ではなかった。舞台設定は限りなく近いのにオーディションから弾かれていた。だからこそ、百合はかぐわしい香りを放っていた。

では美しい少女であれば百合の舞台に上がれるかといえば、そうではない。薄汚い現実の地べたに生まれ落ちてしまった者は、みな等しくその資格を失っている。わたしたちは女の花園にいる少女同士であるはずなのに、純粋に少女同士であることが許されていなかった。電車や街中で、眼差し消費し脅かしてくるものたちを常に感じていた。フィクションの世界では、そうした不純物は、いつか出ていく「社会」にあるものとして匂わされながらも、現在においては、淡くぼかされていることが多い。百合の園の乙女たちは、汚れなくあることを保証されている。社会になんらかの傷を負わされている場合も、魂の誇りは担保されている。

一方、現実のわたしたちの学校は社会のど真ん中にあって、社会は校舎の上に濃い影を落とし、わたしたちの心根をも侵食していた。いじめられた少女が学校を出ていった。ジュニアアイドルとしてビデオに出た同級生が退学になった。ネットオークションでセーラー服を売り飛ばした同級生が値段を言いふらして笑っていた。学校裏サイトでは、容姿の目立つ先輩が悪意あるあだ名で叩かれていた。わたしたちはすでに社会の被害と加害のサイクルに巻き込まれていた。少女たちが純粋に少女たち同士で向き合える、そういう感じもひっくるめて、百合の世界はファンタジーであり、ドラッグだった。

(イメージ:写真AC)

学園の王子様だと思われている女の子が、お姫様キャラだと思われている女の子に助けられる話(乙ひより『かわいいあなた』)。ドジで惚れっぽい幼なじみの恋愛をこっそり妨害しまくっている才色兼備なお嬢様の話(イチハ「Battle Flower」/『女子妄想症候群』1巻収録)。好きな子にキスすると巨大化して怪物を倒せるようになる女の子宇宙人の話(林家志弦『思春期生命体ベガ』)。平行世界をダイブし続けて、消えてしまったあの子を探す話(うえお久光『紫色のクオリア』)。両親の離婚で離れ離れになっていた姉妹が再会し、心を通わせていく話(紺野キタ『女の子の設計図』)。少女たちの交流をのぞき込んでいるあいだは、わたしにも百合世界のモブキャラクターとして、汚れない少女の顔とからだが与えられているような感覚が味わえた。

自分も本来振り分けられているはずなのに排斥されているようにも思うカテゴリとしての「少女」を対象化し、そうした「少女」たちが戯れている姿に憧れ焦がれる、心の薄皮を剥がす痛みと喜びを同時にもたらす作品群を呼ぶのに、百合という言葉以上のものはない。あるいは百合という言葉の多義性が先にあり、女同士の様々な感情を実験可能な庭園迷路としてジャンルを発展させたのかもしれない。

社会人百合もドロドロに愛憎が絡んだセクシャルな百合だって好きだ。ここ数年は、『キャロル』『お嬢さん』『燃ゆる女の肖像』など、実社会の家父長制への批判や同性愛者の苦境に向き合ったレズビアン映画も追っている。でも、これらをレズビアン映画と呼ぶ政治的正しさを行使したからといって、当事者と同じ立ち位置から感情移入して良くなるわけではない。

『マリア様がみてる』を清らかな乙女たちの群像劇として始めながらも、シリーズ3巻「いばらの森」の時点で、現実の困難に打ち砕かれる女性同性愛のエピソードを書いて読者に衝撃を与えてみせた今野緒雪の誠実さと残酷さ。地上からほんの少し浮いた学園のなかで、聖と栞が諦めたものがあった。中学二年生のわたしは佐藤聖という少女の苦悩に入れ込んで「いばらの森」を毎日持ち歩いていたのに、親戚の葬儀で紛失してしまった。わたしはその物語を受け取りそこねた。


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Written by ひらりさ
ひらりさ

ライター・編集者。平成元年生まれのオタク女子4人によるサークル「劇団雌猫」メンバー。
劇団雌猫としての編著書に、『浪費図鑑』(小学館)、『だから私はメイクする』(柏書房)など。
個人としてもアンソロジー同人誌『女と女』を発行するなど、女性にまつわるさまざまなテーマについて執筆している。
初の単著『沼で溺れてみたけれど』(講談社)が発売中。

»https://twitter.com/sarirahira

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