第15話 アリとキリギリス

第15話 アリとキリギリス


 目を覚ましてから、キリギリスはくしゃみをひとつした。洟をすすりながら考える。いつのまにか夏は終わりかけている。朝夕は少し肌寒い。本当はもう少しベッドで寝ていたい。でもそうもゆかない。これからもっと寒くなるはずだ。この程度でサボっていたら、この先に何もできなくなる。

 ベッドから起き上がったキリギリスは、顔を洗って歯を磨いてから、サイフォンで熱いコーヒーを煎れる。朝のコーヒーのおいしさを教えてくれたのは、仕事帰りに立ち寄ったコンビニでよく出会うコガネムシだ。朝のスムージーは健康的よ、と教えてくれたのは近所に住むアゲハチョウ。寒くなったら掛布団の枚数を増やすのではなく敷布団を増やしたほうが暖かいよと教えてくれたのは、地域の消防団で一緒になったクマバチだ。コーヒーカップを口に運びながら、みんな親切だなあ、とキリギリスはつぶやいた。ただしそこには理由がある。彼らは肉食性昆虫ではない。もしもオオカマキリやオオスズメバチやオニヤンマだとしたら、こうしたコミュニケーションをとることは難しい。

 コーヒーカップをテーブルの上に置いてからキリギリスは冷蔵庫の扉を開けたが、野菜室には小さくしなびたレタスとリンゴが一個しかない。これではスムージーは無理だ。リンゴをかじりながら、今日は仕事帰りにスーパーに寄らなくては、とキリギリスは考える。倹約しなくてはならないけれど、主食である野菜だけは欠かすわけにはゆかない。

 ここで少しばかり学術的だけど余計な補足。
 バッタ目キリギリス科に分類されるキリギリスの仲間は決して草食(ベジタリアン)オンリーではなく、小さな虫もかなり捕食する。いわば雑食だ。子供のころから虫を見るとつい触りたくなる質なので、これまでの生涯で何度か噛まれたことがある。とにかく痛い。
 オニヤンマに噛まれたこともあるけれど、キリギリスに噛まれたときの痛さはその比ではなかったような気がする。ノコギリクワガタのメスに匹敵する痛さだ。噛まれるとはまったく思っていなかったので衝撃が大きかったのかもしれないが、僕の記憶ではキリギリスはかなり危険な虫だ。

 補足というか疑問もある。
「アリとキリギリス」はイソップ寓話の中でも一二を争うほどにポピュラーだから、ほとんどの人は子供時代に読んでいると思う。
 挿絵としては、せっせと働くアリたちの横でバイオリンを手に気持ちよさそうに歌うキリギリスのイラストが定番だ。でもキリギリスは決して鳴く虫の代表ではない。鳴くことは鳴くけれど、ギースとかガチャガチャとか決して美しくはない音色だし、そもそも頻繁に鳴き続けているわけでもない。
 でもなぜか働きもののアリに対比する存在として、歌ってばかりのキリギリスが配置されている。キャラに無理があるのだ。その理由は何か。

 ……とここまで書いたところで、キリギリスがバイオリンを手に家を出た。いつも定時に家を出る。几帳面な性格なのだろう。今日はなんだか急いでいる。駆け足だ。追わなくては。キャラに無理があるキリギリスが起用された理由については、ちょっとお預け。あとで書きます。今はとにかくキリギリスに密着しよう。

 キリギリスはいろんな場所に出かける。メインはお祭りやフェスの会場だが、そうした予定がない日は、働く虫たちの傍で応援歌を歌う。今日はお祭り会場だ。
 前座のエンマコオロギやマツムシのあとに、キリギリスはメインでステージに登場した。演奏はとにかく盛りあがった。何度もアンコール。最後はエンマコオロギやスズムシたちがバックコーラスで登場し、キリギリスはバイオリンを弾きながら「マイウェイ」を朗々と歌い上げた。

 観客たちは大喜び。ハナムグリやカミキリムシたちから、この後に花の蜜のカクテルを飲みに行こうぜと誘われている。でもキリギリスは丁重に誘いを断った。夜は家でバイオリンの練習をするからだ。几帳面なだけではなく、こう見えてかなりストイックなのだ。
 こうしてキリギリスの一日が終わる。とにかく音楽漬けの日々だ。

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Written by 森達也

1956年広島県生まれ。映画監督・作家・明治大学特任教授。テレビ・ディレクター時代の98年、オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。11年に『A3』(集英社インターナショナル)が講談社ノンフィクション賞を受賞。

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