やる気のない後輩への注意は“良い事”なのか
中学生の私が作ったパンドラの箱
中学時代、私は吹奏楽部の部長でした。
今や、「ゆとりフリーター」って名前でインターネットの海と現実生活をふわふわ過ごしてるわけですが、当時の私はめちゃめちゃ鬼軍曹。完璧主義。礼儀礼節至上主義!縦社会万歳!おまえら歯食いしばれ!って感じでやってました。
部活動をサボっていたらしい同級生の部員に「なんで休んだの?」と問い詰めたり、後輩の返事が小さいと「やる気ないなら帰れば?」と吐き捨てたり。他の部員同士で揉め事が起きれば、校舎裏の呼び出し、一対一の面談の時間を作る。部員たちの生活態度を注意すること、心の領域に踏み込むことは、部長である私にとっては日常でした。
この記憶に残る部活動の一場面一場面で、現在26歳の私が感じることは「もっと優しい言い方ができただろう」という後悔です。
当時は当時で自分なりに悩みを抱え一生懸命生きていたはずなんだけど、あの時の私の言動で傷つけてしまった全ての人に謝って罪を償いたい!いやもうそんなことで赦してもらえるだなんて思っていない!いっそ十字架にかけてくれ!!という気持ちになる。
つまり私にとって『人に注意すること』がトリガーとなり、
黒歴史が詰まったパンドラの箱が開かれてしまうのです。
それを阻止する為に、私はバイト先の後輩の態度がいくら失礼でも注意することができない。
つまり「人に注意ができないというよりは、中学時代の嫌な自分を思い出したくないだけ」といえます。
結局、私は”黒歴史を思い出すストレス”から身を守るため、保身に走っているんです。
やっぱりした方が良いような気はしている、注意
自分の心の平穏を保つための行動が悪いことだと思いません。
しかしそうは言ってもやはり心のどこかで『状況によっては注意した方が良いような』気がしているのも事実です。注意ができない自分を自分で責めてしまうようでは、私にとっては黒歴史を思い出すのと同等の疲労感を得ます。
ここまでくるともう無限ループなのです。
私が私に付き合い切れなくなる前に、私は ならどうするか を考えてみました。
目標はお互いが疲れない注意の仕方。
相手の気持ちを完全に理解することはできませんが、理解を試みようとする事はできます。
まずは、おばあちゃんを冷たく吐き捨てたあの瞬間において、これから注意する側(私)・される側(後輩)それぞれの考えうる動機を考えてみました。
する側は注意したいあの態度を“良くない事”として捉えている前提の理由が並び、
される側は“良くない事と思っていない”前提のもの、または、やむを得ない状況だったかもしれないという理由が並んだということです。
少し考えただけでも自分でも無自覚だった気持ちや、相手に対する印象を思考ロックしてしまっていたことに気づかされました。
このように一つの出来事を通しても、その人の立場や前提条件の違いで全然景色が違いますよね。みんなそれぞれ独自のフィルターを通して目の前の出来事を見てるんだろうなぁと、改めて思いました。
なんだかものすごく当たり前な事のようですが、すっかり見落していました。
以上を踏まえて、私は、
もし注意をするなら、相手のあらゆる可能性を考慮しつつ、自分がどんな動機で注意しようとしているか伝わる話し方をするのが良いのではないかと思いました。
こんな書き方をすると、気を遣うことが多すぎてこっち側のカロリー消費激しくない?と思われたかもしれませんが、私が言いたいのは、注意しようと言うよりは相手を攻略してやろうみたいな感じ。
自分も相手もどんな前提条件で生きているか分からない中、うまく折り合いをつけるために、まずはお互いのスタンスを知る必要があると思います。
相手が思わず響いちゃうようなこうかばつぐんな攻略法があるかもしれません。
そういえば私が今のバイト先で新人だった頃は先輩に「これあなたならできると思って言うんだけど、次からはこうしてね〜」と注意された時、喜んで反省してましたね。この人には認められ続けたい!だからしっかりしよう!と自然に思いようになっていました。
理解されてる!と思わせたら勝ち!
結論! 『やる気のない後輩への注意は“良い事”なのか』
相手の攻略法に合った注意なら”良い事と言える(こともある)!
ちなみにその後、まだまだ試行錯誤中の私は後輩くんの攻略法を探るべく、彼がボールペンで机をカタカタ鳴らしていた時は、レジ業務から離れることのできる売り場への『DVD返却作業』を割り振ることで、気分転換をさせてあげるようにしています!
以上!ゆとりフリーターでした!
文・イラスト/ ゆとりフリーター