
『レクイエムの名手』
あくまで僕個人の感覚的な問題なので、特定の誰かを否定したいわけではありません。が、いずれにしても、人が亡くなったときフェイスブックやツイッターに“R.I.P.”と書く人の感覚が理解できません。
“R.I.P.”とは“Rest in peace”の略で、「安らかにお眠りください」という意味です。だから、意味としては間違っていないのでしょう。けれど、人の死を3文字に簡略化して、なんの疑問も感じることなくSNSにアップしてしまえる感覚に抵抗があるのです。
しかも彼らがその3文字を投げかける相手は、多くの場合は肉親など血のつながった人ではないように見えます。対象となるのは、会ったこともないミュージシャンとか、ちょっと有名な芸能人とか、自分に関係のない人。だから(つまり責任がないから)口に出せるのでしょうけど、その薄っぺらさがどうにも……。
真面目すぎるといわれるかもしれないけど、人の死は記号にすべきものではないと思うから。
僕の知る限りですが、おそらくその言葉が日常的に使われるようになったのは、ヒップホップ・カルチャーの影響です。あの国の、あの文化圏のなかにいる人たちの死との距離は、僕らには想像もつかないほど近く、たとえばラッパーやDJもこれまでにたくさん亡くなっている。
そしてそんなとき、残された同胞たちは“R.I.P.”とメッセージしたわけです。
でも、彼らがいうそれには違う重みがあるような気がするし、ましてや「ヒップホップの世界でよく使われてるから」的な感覚で使われると、自分に大きな影響を与えてくれた文化を汚されたような気分にもなってしまうのです。
冒頭から脱線しまくっていますが、でも菊地成孔さんの新刊『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』(亜紀書房)を読んでいたら、そんなことを思い出してしまったのです。
彼の死生観は、人の死を軽々しく“R.I.P.”扱いできる人のそれとはまったく違うように思え、とても共感できたから。
菊地成孔さんは、ジャズ・ミュージシャンです。菊地成孔ダブ・セクステット、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール、dCprGなど、さまざまな形態のプロジェクトを通じ、誰にも真似できないであろう世界観を構築している人です。その音楽は間違いなくジャズなのですが、ジャズというひとことでは語り尽くせないものだとも個人的には感じています。ジャンルでくくることの無意味さをここまで実感させてくれる表現者は、彼くらいしかいない気がしています。
で、彼は文筆家としても素晴らしい才能を持っており、その文章がまた突き抜けている。端的にいえばその文章自体が「ジャズ」なのです。感覚的に研ぎ澄まされた、文章上のインプロヴィゼイション(即興演奏)。
シュルレアリスム期に「オートマティスム」(自動筆記)という表現がありました。意識から隔離された状況で文字を書き、意外性を軸とした作品(文章)を書くという行為。乱雑に見える彼の文章は実のところ計算され尽くされているようにも思えるので、自動筆記とはちょっと違うでしょうが、それでも自由な精神性という部分は通じる気がしています。
だから彼の著作はどれも素敵なのですが、それは本書も同じ。それどころか、この十数年間に綴ってきた「追悼文」を一冊にまとめたという点で、これはかなり突出した作品であるともいえます。
問題は、(自分で「今回は絶対にこれ!」と主張したくせになんなのですが)「神フレーズ」を引き出すというこの連載の趣旨には向いていないということかもしれません。なぜなら彼の文章はミニマル・ミュージックのような連続性を持っているので、一部分だけを引き抜いてもその魅力が伝わりにくいからです。
でも、そんななか、東日本大震災直後に書かれた文章の一節は、それ単体でも意味を持つ気がしました。というわけで今回の「神フレーズ」はこれ。
人類は、必ず良くなります。しかしそのためには、ブラックユーモアを受け止める胆力の普及が必須となるでしょう。(218ページより)
震災後の混乱期だからこそ、信じがたい現実をブラックユーモアとして受け入れようということだと僕は解釈しました。しかし、日本がどんどんおかしな方向に突き進んでいる2015年に読むと、結果的にこの文章自体がブラックユーモアになってしまっているわけです。
菊地さんの感性がなにかを予知していたのかもしれないし、ただ偶然に、あれから5年近くを経た日本がおかしくなっているだけかもしれない。しかしいずれにしても、いまこそ、この言葉を噛みしめたいと僕は思うのです。