
『コンビニ人間』
いまでも、よく考えるのです。自分は“何者”であるのかということ。
なーんて書くと、少し前によく聞いた「自分探し」(あれは恥ずかしい言葉でしたね)みたいに聞こえてしまうかもしれませんが、そういうことではないのです。
自分が、社会でどのあたりのポジションに位置づけられている人間なのかが、たまにわからなくなるといいますか。あ、でも、地位とか権力とか、そういう意味でもありません。
僕は基本的に自分のことを、とてもつまらない人間だなと思っています。ありきたりの発想しかできないし、突出した価値観を持っているわけではないし、どちらかといえば絶対的多数の人々と同じようなことしか考えられないし、オリジナリティとか創造性に欠けるし。
だから、ことごとく(悪い意味で)普通だよなぁ……と考えるわけです。
そこには自分という人間の限界があるようにも思えるので、考えれば考えるほど自分にガッカリしたりするのです。
「初めて会ったとき、『ヘンなやつ』って思いましたよ」
「『普通』って……あの、こういっちゃナンですけど、印南さんってめっちゃめちゃヘンな人ですよ!(このあと、同じフレーズを3回繰り返された)」
(ある子に「君はヘンな子だからねえ」と冗談交じりで告げたら)「ヘンな印南さんにいわれたくないです!」
みたいな感じ。そういうことばかりいわれるのです。ということは、もしかしたら本当にヘンなやつなのかもしれない。のだけれど、それが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのかもわからないし、かといって「僕ってヘンなやつなんですー!」とか公言するようなものでもないし。
しかも10代のころのことを思い出してみると、当時の自分は「人とは違う自分でありたい」とか「変わったやつと見られたい」というようなことを思っていた気もするので、だとしたら現在の自分は目指すべき場所にたどり着いたともいえるわけです。
「なのに、このモヤモヤした感じはなんなんだ?」みたいな感じ。
そんなことを思い出したのは、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』(文藝春秋)を読んだことがきっかけでした。
いうまでもなく、コンビニでしか働くことのできない30代の独身女性を主人公にした芥川賞受賞作。
まず、「コンビニで部品になることこそが自分の生き方」だという感じ方自体が“普通”ではないし、そのことを裏づけるように、主人公は“普通”の友人たちとの差異を感じながら生きていくわけです。
しかも、ひょんなことから近い距離に招き入れてしまった男はどうしようもない性格の持ち主で、やはり“普通”とは対極。普通ではない主人公がそういう男と接点を持ってしまう(しかも恋愛感情や肉体的接触は一切なし)というところには「類は友を呼ぶ」的なニュアンスもあるのだけれど、でも、きっと、そういうことでもない。
コンビニでしか働けない主人公も正常だし、働くことすらできないくせに周囲に悪態をつく男も、また正常。ましてや、コンビニの店長も、常連さんも、みんな正常。
そうやって、各人のなかにそれぞれの“正常”があって、でも、人から見るとそれは“異常”だったりもする。ひとりひとりが、そんな小さな、けれど大きなことを考えながら、感じながら毎日を過ごしているからこそ、社会は社会然としていられるのではないかということ。
正直にいえば、読んでいるときにはそんなこと考えもしなかったのですが、おそらく僕は、この作品からそんなニュアンスを感じとったのかもしれません。いま、こうして書きながらわかった。
だから、この作品のなかから「神フレーズ」をチョイスするとしたら、これかな。
「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
(149ページより)
本人がそう実感しているのなら、それで十分だという話。そして同じことは、誰にもいえるはずだということです。
だからそう考えると、僕が“何者”であったとしても、それはどうでもいいことでもあるんだろうな、きっと。
『コンビニ人間』(村田沙耶香:著)
『遅読家のための読書術』(印南敦史:著)