「ほとんど男子校」だった大学で求められた、「女子」としての役割 #それでも女をやっていく

「ほとんど男子校」だった大学で求められた、「女子」としての役割 #それでも女をやっていく


とはいえ、わたしは、女子校にいるときですら「この学校をやめて他のところに行きたい」と何度も夢想していた。なので、決して大学や彼らのせいだけではなく、わたし自身が積極的に疎外感を持ちたい性分ではあると思う。1〜2年の頃は、かなりの頻度で「こんな大学やめちゃおうかな」と考える瞬間があった。飲み会ボックスティッシュ事件でクラスにはすっかり心を閉ざしていたし、クラス外だって、どこかのクラスが大騒ぎしすぎて大学に救急車が来たとか、あのテニサーの顔セレクション(顔で入部の可否を決める手続きがあるのだ)がどうとか、そういう話題ばかりだった。「勉強もできるし、遊びもできる」という強がりだったのかもしれないが、大学には、わたしに「女子」を貼り付けて、「私」を奪う、透明な嵐が吹き荒れていた。その嵐をせめてやり過ごすべく、女子学生比率が多い上智大学に行った友人のところに頻繁に遊びに行き、上智の女の子たちと学食でごはんを食べ、上智の学生食堂で中国語の宿題を解いていた。

こうした居心地の悪さは、複数の学生団体・サークルに所属したことで、幾分かは和らげられた。学生新聞団体ではとにかく毎週4ページの新聞を出し販売するという業務に全員が目まぐるしく追われていたから、男か女かなんて気にしている場合ではなかった。デスクを務める男女2人が編集会議で一歩も引かない本気の喧嘩をしていることもあったし、ボロボロと人がやめていった同学年でたまの飲み会をやるときは、まるで村の寄り合いのような鄙びた空気があった。逆に、文科三類さながら、男女比がほぼ1:1で保たれている茶道サークルに所属したときは、「女子」の存在が当然のソサエティだったから、誰も殊更にわたしに「女子」を求めてこなかったし、そもそも「茶会をやること」がサークル活動なので、それにまつわる雑務は男女分け隔てなく行われた。サークル内での男女交際は当然盛んだったし、何なら茶道というのは他校との交流ありきだったので、他校の女子学生との浮名を存分に流している人もいたが、それは個人個人の振る舞いであり、サークル全体の風潮として押しつけられるものではなかった。

サークルという息抜きがあったので何とか4年生き延びられたけれど、やはり、学部で形成されるコミュニティには、女に「女子」を求める人間が混ざっており、それは法学部という、あらゆる不均衡に敏感であるべきように思われる職業をやがて目指す人間のための空間でも変わらなかった。鮮明に覚えているのが大学4年の初め、所属したゼミに、ある日髪をボブカットにして行った時のことだ。ゼミの中でも非常に「男子校出身」的な男子、テニスサークルに所属し、そこで彼女をつくり、司法試験に通ったら当然渉外事務所で初年度年収1000万円をゲットするぞと息巻いているタイプの、常に他者をジャッジすることに躊躇いがないとある男子が放った言葉が、今でも時折、人生に堆積した泥の中から溢れ出す。

「ちょっと後ろ向いてくれる? お前らも見てよ」

「こうやって見たらYさんとそっくりだよね」

後ろ姿だけなら美人のYちゃんに見えるというジョークに対して、そのときはヘラヘラと曖昧な笑いをしてしまったけれど、わたしは本当は、自分が「ナシ」と断言されたことを怒らなければならなかったのだと思う。それができなかったのは、「傷ついたからだ」という一面もあるが、本当は自分も、心の中で自分も含めた人間を「アリ」「ナシ」に分けていたからだ。だから多分そのときは、彼がわたしを「ナシ」とするのは客観的に正しいがその言い方はないだろう、と感じていただけなのだ。彼が名前をあげたようなYちゃんを「アリ」の女の子だと考えていたし、「アリ」の女の子から好かれたかったし、きっと男だったら同じように、「アリ」「ナシ」で笑っていたのだろうと思うし、曖昧な笑いをしていれば、せめて「ナシ」ではなくて彼らの仲間に入れるような気すらしていたのだろうと思う。

1 2 3
Written by ひらりさ
ひらりさ

ライター・編集者。平成元年生まれのオタク女子4人によるサークル「劇団雌猫」メンバー。 劇団雌猫としての編著書に、『浪費図鑑』(小学館)、『だから私はメイクする』(柏書房)など。 個人としてもアンソロジー同人誌『女と女』を発行するなど、女性にまつわるさまざまなテーマについて執筆している。

»https://twitter.com/sarirahira

»この連載の記事を見る